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ハミングバード

百人で百姓

この子たちを社会で幸せにする!

中学生のときに、ある日本のミュージシャンのコンサートに行って、演奏が始まったとたんに客席からステージに人が押し寄せる姿を見て、「なんじゃこれは!」って。そこから音楽の虜。プロのミュージシャンになりたくて、高校からバンドを始めたんです。卒業後は、昼は冷凍食品の卸し、夜はカラオケパブでバイトしながらバンドを続けました。自主制作でCDを出して、20歳くらいのときに地元のアマチュアバンドとして2,000人くらいお客さんを呼べるライブができるようになった。それで、レコード会社7社からオファーが来て、22歳の時にプロミュージシャンとしてデビューしたんです。

でも、実際にデビューしてみたら、レコード会社と音楽事務所の間のもめ事や、自分たちの音楽活動とは関係ないしがらみがあったりして、純粋に音楽をやれるような世界じゃないってことがわかりました。実力もなかったのかもしれないけど、とにかく想像していた世界とはかけ離れていた。それで、30歳くらいのときに東京に見切りをつけて松山に帰りました。

僕は、23歳で結婚したんですが、なかなか子どもができなくて、人工授精でようやく三つ子が宿った。ところが、奥さんが妊娠7ヵ月半くらいの時に、急にお腹が張って、入院していた病院に保育器がないっていうことで、ほかの病院に救急搬送されたんです。搬送中にどんどん酸素濃度が低下して、3人とも生死をさまようくらい衰弱していた。医者から、「生きることはできても、3人とも障害が残るだろう」と言われた瞬間、それまで思い描いていたものが一瞬で壊れました。絶望したんですが、それと同時に、急に希望が生まれたんです。そうか、この子たちを社会で幸せにするのが自分の使命なんだって。

世間知らずの自分が地域に助けられた

病院に居る時は、みんなが手助けしてくれるから天国なんです。でも、家に帰ったら地獄。3人分のオムツ替えやご飯のほかに、リハビリをぜんぶ自分たちでやる。子どもが寝ている間だけが唯一ほっとできる時間で、家庭に笑顔がなくなってきた。
そんな僕たちの生活を見かねて、地域に「三つ子ちゃんを守る会」ができたんです。50人くらいが交代で、無償で家に通ってくれて、おかげで少しずつ生活が取り戻せるようになった。

その頃は、僕はとにかく子どもの障害を治したいと思って、子どもたちのリハビリを神経質になるくらい気を遣って頑 張っていたんです。ところがある日、近所のおばちゃんが来て、こう言った。

「自分は今日夫婦喧嘩をして、すごいイライラしてたけど、この子たちの顔見たら、そのイライラがぜんぶ吹っ飛んだ。この子たちは幸せを与えてくれる存在なんや」

そうか、障害をもつこの子たちが、支える側になることもあるんだ!って。障害を治すことばかり考えてたけど、障害があっても無くても、支え合うような社会をつくればいいんじゃないかって思えた。子どもたちのリハビリを三分の一に減らして、とにかく一緒に遊ぶようにしました。そしたら、どもたちに情緒が出てきて、無理してリハビリしていたときよりずっと良くなっていった。世間知らずのロッカーだった自分が世間に助けられたんです。地域コミュニティの大切さが本当によくわかった。

農業は「百姓」。“百の仕事”で力を発揮する

子どもたちが成長するにつれて、障害をもつ人たちの仕事はどうなっているんだろう、自分の子どもたちは社会でどう生きていくんだろうというのが気になって、いろんな福祉就労の場を見に行きました。そしたら、みんなで箱を折るような仕事をしていた。あれ?この子とこの子はもっている障害が異なるのに、なぜ同じ作業なんだろうって。月給は3,000〜4,000円。一方で、彼等しかできない表現で、社会で活躍している人たちもいる。それなら、個々がもっている力を発揮して、お給料を5倍、10倍にしていこうと。そのプロジェクトのひとつが「農業」だったんです。農業は「百姓」でしょ?百姓というのは“百の仕事がある”ということだから、それを細分化すれば千以上の仕事があるので、きっと彼等の力を発揮することができるはずだと。

まず野菜づくりを始めてみたら、ものすごく農薬を使うということがわかった。こんな野菜は食べたくないと思って、無農薬でできる技術を探したんです。ある仲間から『リンゴが教えてくれたこと』という本を勧められて読んでみたら、1ページ目からすらすら入ってくる。早速その年に2反の田畑で見よう見まねでやってみたら、お米ができた。やっぱり肥料も農薬も要らないんだとわかって、絶対に木村秋則さんを松山に呼びたいと思いました。木村さんが提唱している自然栽培の技術や、木村さんの思っていることを聞きたかった。ひょっとしたら、障害がある人も無い人も地域の中で一緒にやっていけるっていうのは、自然栽培の多様性とか共生という考え方にとても近いことなんじゃないかって思えたんです。

僕は、地域でNPOを立ち上げて“持続可能な地域社会の創造”というシンポジウムを毎年やっていました。そこに木村さんを呼ぶために、毎日、FAXとメールを送り続けた。そしたら数ヶ月後に、当時のマネージャーさんが降参して、「それだけ熱い思いがあるなら行く」と言ってくれました。木村さんに来ていただいて講演を聞いて、シンポジウムをして、自分が直感したことは間違いじゃなかったと思った。そして、木村さんから「佐伯さん、福祉の現状に文句を言うんじゃなくて、一歩前へ出てみたらどうか」と言われたんです。

一歩前へ出て広がった支え合う世界

一歩前に出てみたら、その年のうちに2反しかなかった田畑が6町歩に増えた(笑)。なぜか地域のあちこちから、田んぼをやってくれという話が来たんです。もちろん失敗もあったし、地域の人たちには、「なんという栽培をしよるんじゃ。できるわけないじゃないか」と言われました。公民館に呼び出されたので、「今年一年だけ見てください。それでダメだったら農地はお返しします」と土下座しました。

翌年結果を出すことができて、1年、2年と経つうちに、栽培技術も上がってきた。うちで働いている人たちはいろんな障害あるんです。脳性麻痺、脳梗塞で障害が出た人、重度の知的障害、精神障害、うつ病になってリハビリに来ている人まで。うつ病になった人たちは、週4時間くらいしか働けなかった人が、いま30時間以上働けるようになりました。自然栽培の田畑は、生きものがたくさんいて多様性そのもの。そこにいるだけで力を与えてくれたり、ゆったりとした気持ちで仕事をさせてくれる。みんな田畑で笑って作業しているんです。精神状態が安定したり、マヒが出ていた機能が回復していった。自閉症の人たちは、ポットにタネを播く作業を正確にできるし、観察力が鋭いということがわかった。いままでの“障がい者の仕事”という固定観念が壊されていく毎日です。自然栽培というのは創造的な農業なので、彼等の得意を活かせるところがたくさんあるんです。

もうひとつの利点は人海戦術で農業ができること。たとえば耕作放棄地を再生する時に、草刈りの作業なんかを20人くらいで、せーの!でできる。1人の農家ではできなかったことが、大勢だからできる。自然栽培という農産物の付加価値も加わって、全国の平均賃金の5倍くらいの賃金を払えるようになりました。自分の子どもたちを支えてくれた人たちが、高齢になって耕作できなくなった田畑を再生させることもできた。

「障がい者」と呼ばれてきた人たちが地域の問題を解決している。日本の農業再生に役立っているんです。そういう動きが全国で生まれてくれば、いい循環になっていくはずです。ハンディがぜんぶプラスに転化してくっていうことを教えてくれたのは、子どもたち自身だし、百の仕事がある自然栽培だから、様々な人にたくさんの仕事が生まれる環境が出来たんだと思います。

佐伯康人 (さえき やすと)
1967年、福岡県北九州市生まれ。
新田高等学校卒業後、プロボーカリストとしてメジャーデビュー。
30歳で愛媛県松山市に帰郷し現職に。
株式会社パーソナルアシスタント青空(メイド・イン・青空)代表取締役 /NPOユニバーサルクリエート 代表理事 / 農業生産法人 ネイティブ・サン代表。「自然栽培」による障がい者就農への取組みで、ハンディのある人たちにも優しい社会の実現を目指す。「自然栽培×障がい者就農」の普及に向け日々全国各地を奔走。愛媛県松山市在住。