僕の実家は、子どもの頃は豚を飼っていたし、野菜もリンゴもつくっていたので、農家の仕事はわかっています。
養豚の場合、昔は残飯や畔草などを食べさせていましたが、徐々に、農協から購入する肉骨粉を使った配合飼料、抗生物質入りのフスマなどに変わっていきました。そうするにしたがって、生まれた子豚が病死したりして様子が変になっていった。農家も農薬をばんばん使うようになっていったのです。
映画『奇跡のリンゴ』の中で、木村秋則さんの奥さん役の菅野美穂さんが、容器に入れた農薬をかき回して顔を背けるシーンがありますが、僕もあの匂いを覚えています。
だから、料理の道を目指しはじめたとき、僕が料理長になったら、昔ながらの餌で育った豚や、農薬を使わない野菜やリンゴを使った料理をつくろうと、ずっと思っていました。
親からの勧めもあって、19歳の時に弘前の調理師学校へ入りました。一年間働いて貯金して、入学金を納めて寮に入ったんですが、職場の先輩が毎晩のように「飲みに行くよ!」って誘うので、門限に帰れない。それで、入学式前に退学になってしまった。
レストランで鍋洗いと皿洗いのアルバイトをして、見習いの採用になり修行をはじめ、勉強して調理師の免許を取ったものの、田舎で料理をつくっても、高が知れていると思ったんです。レストランの親方の机の上に、分厚いフランス料理の本が置かれていましたが、実際つくっているのは、ハンバーグとケッチャップ味のスパゲティ、カレー、ピラフ…。津軽が好きだったので東京へは行きたくなかったけれど、料理人として成長するためには弘前を出なくてはと思った。それで東京に行って、ようやく赤坂の小さなレストランで働きはじめました。しばらくして、親方と一緒に仙台の店へ行くことになったんです。ところが、仙台での修行6年目を過ぎたころ、実家の親父が倒れたという連絡が入った。それで、20代後半に弘前に戻りました。
弘前では縁あって、宴会場の総料理長の職を得たのですが、6年勤めてみて、やっぱりフランスで修行したくなった。思い切って仕事を辞めて一年間の予定でフランスへ飛びました。
修行先は、リヨンにある一つ星レストランでした。ところが、今度は、弘前のホテル「法華クラブ」から料理長をやってくれと連絡があった。じゃあ一年修行したら行くと言ったら、もっと早く帰って来いという。日本から戻っても仕事がないのでは仕方ないので、わずか3ヵ月のフランス滞在で日本へ戻ることになりました。それが34歳の時です。
短い期間でしたが、フランスで修行していた店から受けた影響は大きいです。リヨンの市場でローヌ川の魚などの食材を手に入れたり、農家から直接野菜を買ってきたり、山のジビエを使ったりして、その店独自のスペシャリテをつくる。そういうのを見て、やっぱり僕がやりたいのは、自分が住んでいる地域ならではの良い食材を使ったスペシャリテだと思いました。特に、弘前でやるのだったらリンゴは欠かせなかった。そうして、弘前でホテルの料理長をしながら、地元の生産者を探しているうちに、地元紙に掲載されていた、ある記事が眼に留まったんです。
「鯵ヶ沢の生産者が、弘前の消費者を招いて交流をしている。この活動に対して、無農薬でリンゴを生産している木村秋則さんがエールを送った」と書いてあったんです。
「無農薬でリンゴを生産」という一行を見て、これだ!と思った。すぐに地元紙に電話して、木村秋則さんの連絡先を聞いて会いに行きました。
木村さんと初めて会った時、何かゾクゾクッとするものがあったのを今でも覚えています。食と農、そのほかさまざまな話を聞くたびに眼からウロコが落ちました。
「山さん、これでスープつくって!」と、トウモロコシを渡される。今まで缶詰のコーンでしかスープをつくったことがなかったので、生のトウモロコシを擂り下ろしてみて初めて、こうやってつくると美味しいんだって気がつく。畑に行って、無農薬・無肥料のトマトを食べて感激する。大根は、お日さまに合わせて右回りに土に入っていく、だから抜く時は左に回せばいいとか…、そういう話を木村さんのリンゴ畑に行くたびに聞いて、岩木山に夕日が沈むまで語り合った。
木村さんが赤貧の日々で、かつて死のうとしたことがあったなんて知りませんでした。ただ、家を見て、お金がないのはわかった。リンゴがまだ売れていない時期だったので、親しくなるにつれて応援したくなりました。
ホテルのメニューに木村さんの名前を書けば、少しはリンゴが売れるんじゃないかと考えて、リンゴを使ったスープを思いついたんです。
最初は、木村さんに「美味しくない」って言われました(笑)。なぜかというと、鶏のダシや玉ねぎを使ったりしてつくっていたので、あまりリンゴの味がしなかったんです。それで試行錯誤して、今の「奇跡のりんごの冷製スープ」が誕生しました。
完成して、メニューに「木村秋則さんの無農薬・無肥料のリンゴ」と書いたけれど、まったく評判にならなくて、「無農薬だからどうしたの?」っていう時代でした。
平成4年に、木村秋則さんと木村さんが提唱する自然栽培の素晴らしさを知って欲しくて、「夢のディナー」を開催しました。
こうした生産者の食材を、素材にこだわる料理人がつくることで、応援できると思ったんです。当時はホテルの料理長だったので、声をかければたくさん人が集まりました。
ただ、その時に来たお客さまは、美味しい料理を食べたかっただけで、木村さんにも自然栽培にも興味はなかった。だから、木村さんが感極まって、「今日は、山﨑さんが、私たちのために開催してくれました」と言っても、「なんだ、あのオヤジは、酔っぱらってるんじゃないか?」という声が聞こえてくる。
続けていくことで理解されると信じて、毎年開催しましたが、その頃から、ホテルは原価を落として利益を上げていく経営になっていきました。僕は、いい食材を仕入れたかったので、方針がまったく合わない。それで、辞表を出したんです。
いよいよ自分の店をもつ決意を固めて、借金して「レストラン山崎」をオープンしました。自分を入れて3人で切り盛りする小さな店でした。最高に売り上げた月でも360万円。経費を引いたら給料なんていくらもない。
周りにいた友だちはみんな去っていきました。自信を喪失して、孤独な日々でしたね。それでもコツコツと続けているうちに、少しずつお客さまがいらしてくださるようになったんです。
今の場所へ移転した2010年に、最後の第7回「夢のディナー」を開催しました。当時は、僕たちの想いは届かなかったけれど、あれから15年経って、今、木村さんはすっかり有名になった。今年の春に弘前で復活した「夢のディナー」には、遠方からも大勢のお客さまが訪れて、自然栽培で提供できる食材も格段に増えました。
木村さんと出会った時に、これは将来を担う農業になるという予感がありましたが、それが現実になろうとしています。
自然栽培の食材が素晴らしいのは、棄てるところがないことです。僕は、これは、神さまが与えてくれたものだと思っています。肥料も農薬も使わずに、タネを播いて収穫して、タネを採って播けばまた作物が穫れる。それを永遠に繰り返していけるのが自然栽培です。例えば、普通の大根は、葉っぱも皮も農薬が気になるから棄てるわけです。
ところが、自然栽培の大根は、葉っぱは刻んでみそ汁にしてもいいし、皮はキンピラにしてもいい。すべて使えるし、すべてを使い切りたいと思う。手に取ったときに、一般のものとは違うアイデアが湧いてくるし、素材が良いから愛着が湧くんです。
今はまだ自然栽培を理解しているのは、料理人の中でもごく一部の人たちです。プロの料理人にもっと発信すればいいと思いますが、東京にいても、自然栽培の野菜はなかなか手に入らない。彼らは、慣行栽培と有機栽培の違いも実はわかっていなくて、どんな素材でも、自分の技と腕でなんとかするという自負がある。それで「星」を取ろうとしている。
でも、僕はいつも、「腕は悪いけれど、素材がいいんです」と言っています。“料理は食材ありき”だと思っているので、生産者が一番で、山﨑は二番でいい。木村さんが一つのリンゴにかけた労力と汗をわからない人は、奇跡のリンゴも、ただのリンゴにしか見えないかもしれませんよね。
フランスでも、実は地方でこそいい料理人が育つ。パリじゃないんです。パリには三ツ星レストランがたくさんあって腕の立つ料理人はたくさんいますが、何を使っているのかといえば、普通のものです。パリで日本野菜がブームだと言われていて、日本野菜でつくった料理が飛ぶように出るそうです。でも、使われているは普通の野菜です。本当に美味しいものは地方にある。
東京の人たちが自然栽培の野菜を得るのが難しいのだったら、生産現場に近い僕ら、地方の料理人たちが提供すればいい。これからは、東京の人たちは地方に行って、その土地の素晴らしい食材を使ったフレンチやイタリアンを味わう時代なのかもしれません。
山﨑隆 (やまざき たかし)
1952年、青森県西津軽郡生まれ。
72年より弘前、東京、仙台で料理修行。
83年に渡仏し、パリ、リヨンで研修。
86年にホテル法華倶楽部弘前店洋食料理長に就任。
89年、弘前フランス料理研究会設立。
94年に「レストラン山崎」をオープン。
料理イベントの企画や商品開発、講師などを行いながら本物の食を提案。
89年に木村秋則さんと出逢い、自然栽培の普及にも尽力している。
著書に『奇跡のりんごスープ物語』(講談社)がある。